日めくり

Dec.1122

早朝5時、外はまだ暗くご近所さんは、どこも電気が点いてはいない。
そっと雨戸を開けると、おー、明るいお月様がまんまる(のようにみえた)に輝いているではないか。
西の空はその月明かりで微かに淡い淡い甕覗きの藍色のように見える。
月の傾き加減や空の移り行く色をずーっと見ていたいけれどそうもいかない、いつもの朝に。
顔を洗って身支度をし、お湯を沸かし朝食の準備をする。
ゴミを出し新聞を取り家の前と駐車場を掃く。
洗濯に取り掛かりながら洗面所をチャチャとクレンザーでこすって、掃除のまねごとをする。
空がだいぶ白んできて、周りも少しずつ小さな生活の音や匂いがしてきた。
空の上の月と一緒にいるように錯覚して過ごしたこの朝も、もうおしまい。
今の月には起きた時に目にしたような輝きはなく、空の青さに消え入るように儚くうっすらと見える。
この名残惜しさは、旧知の人が遠いところに行くような感じかな。

Dec.0322

私は活字が好きなので新聞は多少忙しくともできるだけ目を通すようにしています。

今日の朝刊に弁護士紀藤正樹氏のことが載っていました。
氏名の横に大きく「霊感商法からの救済に奔走」と書かれています。
ずっと前、オウム真理教の事件があった時、テレビで何度も見かけましたが、今は旧統一教会の問題で
テレビや新聞で見かけない日はないほど多忙な人のようです。

少し長くなりますが、記事を読んで心に残った言葉を記したいと思います。
「(カルト政策について)やってもやっても本質まで迫れず30余年。ボクシングで連打を浴び続ける。…力不足を
悔やみながら今日も起き上がる。」という状況らしいのです。
あゝ、さぞ苦しいのだろうなと思います。
こうも言っています。
「私は理不尽さや不正義に対してはっきり意見を言うよう心がけていますが、世の中には黙る人もいる。
声を上げる人に敬意を表します。沈黙する人たちの権利をも底上げするから。…」
理不尽だと思っても声を上げられない人もいることの深刻さを思い、私は今までの自分の考えを浅いと思いました。
私は憤慨し過ぎて黙ってしまう人を責めてしまう傾向があるからです。
氏は「私は自分の政治信条を抜きに被害者救済に取り組んでいます。…それからどんなことも“風化”していく。
いつまでも悲惨な過去にとらわれるのは人間の営みとして良くない、もう忘れようよ、と。それでも私は風化させないよう
警鐘を鳴らし続けます。」
だから総花的にわかりやすく解説しなければと、本を出したりもしているそうです。
人を尊重するということは、こういうことで、誰ひとり取り残さないに通じることなのだと思います。

もう一つ印象的だったのは、大学院で最初に指導された憲法学者の言葉について話されていることです。
その学者は「国の限界や例外を考える学問は、国家権力の構図が変わると弾圧され、投獄される可能性もある。
論文は命がけで書きなさい」と言われたそうです。
だから氏は、今も文章を書く時は“後世に残るものを”と思っているとのこと。
とても厳しいですね、でもだからこそ全力で理不尽や不正義に対峙できるのだろうと思います。

このような記事や文章に出会うと、心がジーンとなって、自分も日常生活で小さくても勇気を持って
チャンと物事の善し悪しを判断していけるようにしよう、などと思うのです。

Nov.3022

晩秋から冬に移行しつつある季節になりました
最近は、時間の移ろいがさらに加速したように感じて戸惑います。

さて、この夏居間の窓ガラスを曇りガラスから透明なガラスに変えました。居間は二階にあります。
家の隣りは市の敷地で数種類の樹々が植えられており遊歩道になっています。
ヤマモモ、ハナミズキ、名前の知らない樹が窓から手を伸ばせば届くような距離にあります。
季節ごとにそれぞれ表情があり、いつもこの眺めを誰かと共有したいと思っています。
窓枠は絵の額、つまり窓外の景色は絵画、美しかった紅葉が終わりに近づいています。
昨日の風でハナミズキは紅い葉をほとんど散らせてしまい、名前の知らない樹はほんの少し黄色の葉を残しているだけです。
その残り少ない葉が僅かな風にゆらゆら小さく揺れて愛おしい限りです。
そのおくにヤマモモの深い緑色の樹が堂々と立っています。
小鳥が羽を休め、仲間と戯れ、餌をついばむ姿が見えるようになりました。

これはさながらポール・ヴェルレーヌの落葉(らくよう)の世界です。
上田敏訳が一番気に入っています。
秋の日の ビオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し 
この一節からはじまる詩は人生を枯葉に例えてあまやかで切ない、と思います。
上田敏は「音楽の声を伝え、而してまた更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。」とこのように
ヴェルレーヌを譚者として記しています。

Jan.0522

あけましておめでとうございます。

新しい年も五日過ぎ。
昨年と同様、目出度いといった気持ちも起こらず、なんとな〜くダラダラと一日が流れていく感じ。
夕暮れ時、まだ微かに残っている空のオレンジの帯は希望の色か。
深き群青色の空には、ビュービューと風が吹いている。
その冷たさ故に星々は一層の美しい瞬きをみせる。
そういう空を見上げて、人間世界の侘しさを思う。

若い頃は、新しい年が明けることが嬉しかった。
未来は無限大に広がっているような錯覚を楽しんだ。
今はどうだ。 残りの日々が少なくなったようで、何と断定はしかねるが惜しい気がする。
例えば、いつか見たドラマでこの桜を後何回観られるだろうか、としみじみ見上げるシーンがあったが、
そこまではまだ、追い詰められてはいない。
しかし、これから年齢に合わせた何かを、あるいは我を忘れるような何かを見出すのは難い。
さて、どうやってこのコロナ禍の中、暮らしたらいいのだろう。

でも、と思う。
この年齢で希望だらけというのもチョット辛いかな。
コロナに打ち勝ち頑張ろうというのも、聞き飽きた。
それにこの頃は、如何に死を迎えるか、なんてテーマが多すぎる。
何かハッキリしないが、誇れる死に方をしなくてはいけないような。
そんなことはない、普通で十分かなと思う。
三度の食事をして、たまに二度だったり。
洗濯をして時々掃除をして、本を読んでぼーっと外を見て、たまに映画に行って、展覧会に行って、
一年に数回コンサートに行って、チョットヨガの真似事をして、ずっーとひとりでいる。
それでもいいかもと年頭にあたり思っている。

Dec.1321

先日、多摩市にあるコミュニティーセンターかるがも館に落語を聴きに行って来た。
コロナ禍で延期となっていた催しをどうやらやっと、開催したらしい。
BSテレビ「笑点」の女流大喜利などで活躍中の“春風亭一花”氏の独演会である。

大柄ではないもののスーっとしていて様子が良い女性だ。
ピンクの着物と黄緑の羽織の色が、よ〜く見ないとそれとは感じさせないくらいの淡さで染められていて、
えも言われぬ美しさだった。
羽織に長着という、いわゆる男性の着物姿なのだが妙に似合ってカッコいい。

江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されてきた伝統的な話芸のひとつに落語がある。
最後に“落ち”がつくのを特徴にしているわけだが、えーっと驚くものであったり、きっと予想がつくものもある。
予想がついても、上手い噺家だとそこに行きつくまでの間、私などは笑いがこみ上げてきて止まらなくなる。
落語の特徴といえば、他の芸能とは異なり、衣装や道具、音楽などに頼ることはあまりない。
強いて言えば手拭いとお扇子くらいだ。
そのシンプルさ、それが粋のような気がして、私は勝手に酔いしれている。
ひとりで何役をもキャラクターを演じ分け、身振り手振りだけで話を進め、手拭いと扇子であらゆるものを表現する。
日本が誇れる高度な技芸だと思っている。

一花氏の話もマスクをして聴いたとはいえ、大口開けて思い切り笑い転げた。
長屋の大家さんや職人、友人二、三人、若い女性、または父親に母親、男の子、親方などを演じ分け、実に面白い。
それぞれの登場人物の会話で性格や心情が手に取るように分かる。
会場のあちこちから笑いが漏れ、連鎖し、渦となって爆笑が多々巻き起こった。

日々の暮らしは相変わらず靄っている。
でも、お陰でその日は気持ちスッキリ、なんとなく楽しく充実した気分が味わえた。
最近は実力派の女流落語家もたくさん見かけるようになった。
すご〜くいいことだ。楽しみだ。
若いこのような女性達に心からエールを贈りたい。

Nov.1521

すっかり秋も深まり、枯葉が静かに散っている。
快晴の晩秋は、空気が張り詰めて来て爽快、空の青さは哀しいくらいに澄んでいる。
そんな中、熟柿は印象的なものであった。
枝だけになってしまった木に、夕日のような色の柿がついている。
鈴なりならば実りの豊かさを、ひとつふたつなら淋しみの中の温かさを感じる。

最近、『柿日和』(坪内稔典著)という本に出会った。
食すこと、鑑賞することはもちろん、柿について知り得ることすべて、そして文学、旅することにも言及している
ユニークで楽しいエッセイ集である。
柿への愛がジワーっと伝わってきて心も柿色になる。

柿の種類やそれにまつわる体験、坪内逍遥の俳句や壺井栄の作品、寺田寅彦のエッセイ、高村薫著『照柿』など
文学における柿の描写や意味についても大変興味深く読んだ。
とりわけ新潟市から佐渡に渡る船中で食べたお菓子「柿の種」については、著者の気持ちを共感し懐かしかった。
著者曰く「一粒の柿の種になった気分で佐渡島に上陸した。目指すのはおけさ柿だ。売店で買ったのは長岡市の
浪花屋製菓の柿の種だった。缶入りである。この絵がおもしろい。藁ぶきの農家があって、柿が赤く熟れている。
家の前の道では子ども達が縄跳びをしている。輪まわしをしている男の子もおり、鶏や山羊も遊んでいる。米俵を
積んだ馬車が通って行く。ある時代、つまり柿がどこにもあった時代の絵柄だ、それは。のちに柿の種の元祖を名乗る
浪花屋について調べたら、大正十三年(1924年)に柿の種が誕生したのだという。」

浪花屋製菓の柿の種の缶は私もずーっと大切に持っている。
新潟の辺鄙な田舎に育った私はこの絵入りの缶が、子どもの頃を思い出させ、のどかだったなと郷愁に誘われる。
言われてみれば、あの頃の柿は輝いていた。
色ずくことも食べることも、みんな心の中で待っていたような気がする。
どこの家にも柿はあって、家の軒には干し柿が吊るされていた。
渋柿は祖母や母が焼酎などに漬けて、それぞれの家のものを持ち寄って出来を自慢などしていた。
遠い遠い晩秋の風景だ。
人はみんな自然と共に喜びや悲しみを共有していたのだった。

Aug.0221

コロナ禍になり、お家時間がとても長くなった。
当初は、気に入って収集しておいた生地や思い出深い両親の着物の数々で、いつか作りたいと
思っていた洋服作りの機会にしようと、結構張り切って夢中になった。
しかし、だんだんと興味を失ってしまった。
作っても作っても着ていく場所はなく、友人たちとも外出できなくなり、装うことも稀となった。

けれど、今年になって私はまた、突然ソーイングに興味を持った。
NHKで「ソーイング ビー」というテレビ番組が放送されていたのをご存知だろうか。
イギリスで制作されたもので、予選(?)を勝ち抜いてきた10人によって、裁縫名人の腕前を競うというもの。
毎回様々な課題が出され、審査によって一人づつ落とされ、最終回では残った3人の中から優勝者が決まる。
素材は綿、リネン、シルク、ジャージ、化学繊維、合成繊維等何でもあり、作る服はブラウスやパンツ、ワンピース
ジャケット、コート、水着やスポーツウエア、特別な日のドレス、そしてリメイクとこちらも何でもありだ。
参加者のソーイング歴はまちまちで、3〜4年の人から50年という人もいる。
共通していることは、みんなソーイングをとても愛していて、それを心から楽しんでいることだ。

課題の服については、その生い立ちや歴史などが簡潔に説明される。
例えば、70年代に流行した裾の広がったベルボトム、若者が競ってはいたジーンズは、もとはベトナム反戦の
意思表示であったとか。
ドレープが美しいインドの民族衣装ドーティの製作では、あの独立の父インディラ・ガンジーが守った
綿にまつわる物語を知ることができた。
衣服で人を判断することを諫めた言葉もあるが、どのような衣服を身に着けるかは、現代では
その人となり、つまりはその人の個性、あるいは考え、気持ちなどを表現することに他ならない。

参加している人達は、とにかくこの場を心から楽しんでいる。
いつでも明るくてオープンだ、そしてまたいつでもみんな正直だ
時間制限があるので、焦ったり、悩んだりもする。
課題が広範囲にわたり、難易度も高いので、これまで手掛けたことのない洋服や素材も多い。
そんな時、手を動かしながら教えあったり、励ましあったり、ジョウクを言い合ったりと賑やかで、
決して諦めたり、暗く落ち込んだりはしない。
全力を尽くして、うまく完成できたら思い切り喜び、出来なかったら反省はするけど次に希望を持つ。
ちゃんと競争はしているけれど、他人を羨んだり、謗ったりはしない、人はひと、と割り切っている。
つまりは、お互いを尊敬し合っているのだ。

凄いと思うのは、創造力というか、ここに参加しているすべての人の独創性だ。
同じ型紙で同じ洋服を作っても、その人らしさがいつも表現されている。
こういう課題は、個性や創造力を試されるのではなく、品格や指示通り製作できるかどうかが
問われているのだけれど、それでも生地や色の選び方で違ってくるのだから面白い。

それから、リメイクの課題には感動した。
例えば、華やかな柄や色のアフリカの民族衣装を使って、まったく新しい衣装を作ることや
サマーバケーションで使用したパラソルや椅子の布を使って、あるいは再生可能なカーテン地で洋服をつくる。
また、出場者全員が作った洋服の残り切れを使って、自分の好きなデザインで好きなものを作るなど。
思いもしなかった素敵なワンピースやドレス、手の込んだブラウスやスカートなどに変身して、
とてもリメイクには見えない洗練されたものになっている。
何年か前、バーバリーが古くなったデザインの在庫品を大量に破棄して批判を浴びたが、服飾業界では
大量に出る残り切れをどうするかが、大きな問題になっているのだそうだ。

かくして私はこの番組に感化され、今はせっせと洋服を作っている。
絞りを施しそのままになっている布、父や母が愛着を持って身に纏った着物の数々、
どうにかして活かして、せめて私が着て楽しむことは出来ないか、頭を悩ませているこの頃だ。

July.1721

“チャイコフスキー交響曲全曲チクルス 小林研一郎80歳(傘寿)記念&チャイコフスキー生誕180周年記念”
コンサートに行ってきた。
昨年がマエストロの80歳の誕生年で、約一年をかけてチャイコフスキーの作品を連続して演奏するはずであった。
私は単券しか買えなかったが、昨年4月の演奏会をとても楽しみにしていた。
コロナ禍がずっと続き、延期に延期を重ねた。
キャンセルの選択肢もあったが、この企画サイドの方々は、決してすべてを中止とはしなかったので、
とにかく、私は望みをかけて待とうと決めていた。
それほどに、小林研一郎氏の指揮に魅力を感じていた。
また、文化の重要な担い手の楽団員の方々への、コロナ禍の仕打ちを思う時、例え私のチケット一枚は
微々たるものであっても、何かに役に立ててもらいたいという密かな願いもあったからである。

果たして、“炎のコバケン”の異名を持つマエストロの、依然と少しも変わらず情熱的でしかも繊細で豊かな
指揮に、改めてチャイコフスキーの音楽の素晴らしさを堪能した。
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23は、誰しも一度は聴いたことのある曲だと思うが、だからこそ
その善し悪しが際立つのではないかと思う。
そして、交響曲「マンフレッド」ロ短調作品58番。
チャイコフスキー生誕180周年もあってか、最近この曲目も目にするが、これまであまり演奏されなかった曲のようだ。
私はイギリスの詩人バイロンが劇詩「マンフレッド」を書き、チャイコフスキーが交響曲にしたことを知って、
以前からずっと聴いてみたいと思って、何年かが過ぎていた。
今回、小林研一郎氏の指揮で聴けるなんて、私には願ってもないことであったのだ。
本当に、素晴らしいの一言に尽きる。
ボキャブラリーの貧困な私には、どんなふうに形容したらよいのかわからないが、とても感動した。
その日は心からマエストロと楽団員の方々に感謝を捧げたいと思った。
気持ちが明るく豊かになり、合う人ごとに優しく寛容に接したい気分になった。

いつもなら、「ブラボウ!」の声掛けや立ち上がって拍手をするところだけれど、コロナ禍のため
そのような行為は禁止となっていたことを、心寂しく感じていた。
しかし、人間ってすごい、と思わず口に出したいところだった。
演奏が終わって、嵐のような拍手と共に周り中から白い横断幕を掲げる人々がいた。
そこには「BURABOU」と書かれていたのだ。
私などは、単純にその行為にも感動をした。
声を出したらいけないなら、視覚に訴えるなんて、これは人としての叡智だ、などと大袈裟に思った。
冷静に考えれば、サッカーや野球の応援でもやっていたな、なんて思い起してチョット引いてしまったのだが。
それはさておき、マエストロは人々にとてもリスペクトされ愛されているのだ。

Jun.1921

新型コロナに対するワクチン接種が五月半ば頃からか、始まっている。
このことは、感染リスク、生命の危険性を軽減する意味において、喜ばしいことだと思っている。
緊急事態宣言をたびたび発令され、経済をはじめ、あらゆる分野で様々なことが停滞し、貧困が助長され格差も進んでいる。
そこに待ちに待ったワクチンが開発され、今はもう、挙ってもっともっとが歓呼されている。
その世論、社会、国は、全面的に「善」とする考え方で報じているように思える。

果たして、ワクチン接種をそのように信頼していいものか、私個人は不安を抱いている。
すでに日本人だけで、85人が死亡している。そのうちの何人かはワクチン接種との因果関係はないといわれてはいる。
けれども、因果関係無しに対する理由や根拠を、詳細に示してもらいたいと私は思っている。
接種した人の数は今この時にもかなりのスピードで増えているので、死亡数は確率にしたら微々たる数だ。
しかし、85人という数は本当に少ないのだろうか。
そもそも人の死を数字にして物事を考えることを私は好まない。
死亡した人たちには、他に代えがたかった個人の人生を生きていた。
多くの人を救えたのだから、多少の犠牲者は仕方がない、という考えの人もいるだろうが、
ひとりも犠牲者がでることのないよう、国を司る者は手を尽くすべきではないのか。

コロナに感染することはもちろん怖いが、ワクチン接種をすることにも私は恐怖を感じている。
感染を防ぐことは容易ではないが、細心の注意を払えば防ぐことは不可能ではない、と考えている。
ワクチンの開発はあまりに早すぎて、臨床試験も十分とは言えないだろうことに、危惧の念を抱いてもいる。
負の部分は、取り上げられてはいるが、なかなか目に付き難い気がする。
なんだかワクチンを接種したら、元の世界に戻るような錯覚をしそうな雰囲気が、返って怖い。
現在、我が国では米国製のファイザー社のワクチンを接種しているが、アメリカの男性の平均体重90s、女性の平均体重75s
の人に打つ量を、私たち日本人にも同様に接種しているそうだ。
私などはアメリカ人女性の平均体重の約半分の体重なわけで、この事実に眩暈がしそうになった。
インフルエンザ予防接種で、発熱、腕全体、五本の指先までパンパンに腫れ、痛みを伴い動かすことも握ることも
できずに過ごし、完治するのにほぼ一週間かかった私は、今回のワクチン接種に気が滅入っている。

マスコミは現政権に出来る限り早く、多くの国民にワクチン接種ができるよう呼びかけている。
私は決してワクチン接種に反対をしているのではないが、何か、国民全てが同じ方向を向かされているようで、
そのことに異を唱えにくくなっているような状態に対して、ある意味において抵抗感を持っている。
厚生労働省のホームページには、きちんとワクチンの説明がされているし、接種する、しないは、個人の意思に委ねられており、
個人の同意なしには接種できないことが明記されている。
しかし、そういった重要なことは日々私たちの眼には入り難い。

菅総理の一日当たりのワクチン接種目標回数は、100万回だそうだ。
それで、大規模集団接種に踏み切り、色々その会場での様子が伝えられている。
多くのワクチンを獲得したことが、そのまま為政者の優劣を決定するような雰囲気を感じる。
大会場にたくさんの人を並べ、腕を出させ、流れ作業のように消毒をし、注射針を持った医師が、
これもまるで流れ作業のように、ただ人々の腕に針を突き刺していくような画像を見た。
大規模接種会場でも、全部が全部このようだとは限らないだろうが、人を物扱いにしているようで、私は違和感を持つ。

先日、夫は一回目のワクチン接種をした。
夕方だったし、雨も降りそうだった、何よりも夫は寒冷蕁麻疹の出る体質なので、長袖を着て出かけた。
会場で袖を上げるのに、僅か、時間にしたらほん数秒、もたついたそうだ。
接種時の医師は中年の女性だったそうだが、「なんで長袖なの、半袖を着て来ればよかったのに」と言われたそうだ。
このような言い方は、この医師の質なのか、ワクチン接種の会場が時間的余裕や心のゆとりを奪っているのか、
定かではないが、夫の心に小さなしこりを落としたように思える。

厚生労働省のホームページには、ワクチン接種を何らかの理由で接種できなかったひとや様々な考え方や体調などの理由で
接種しなかったひとに対して、偏見や差別を持ったり、またそのような事を助長する行為があってはならないと明記している。
だが、すでにオリンピックを開催した場合、観客はワクチン接種をした証明書を持つ者、またはPCR検査で陰性の証明を
持つ者に限り、会場で観覧できることにしたらどうかといった意見も出ているとか。
日常の生活で証明書があれば飲食店やその他なんでも可、そうでない者は来店お断りなどという店がでないとも限らない。
集団接種などは学校、職場においては特に留意が必要になるのではないだろうか。
今回のワクチン接種には、このような側面もあることをきちんと理解しなければならないと思っている。

May.1021

五月がやって来た。
各々の月には、その季節に呼応する様々な形容詞を持って飾られるが、これほど爽やかな印象を抱く
月は無いのではないかと、つい最近まで思ってきた。
皐月晴れ、新緑の季節、などは代表的な言い方で雨さえも五月雨(さみだれ)などと情緒に富んでいる。
かつて詩人の立原道造は、見舞いの客に今度来るときには、「五月の風をゼリーにして持って来てくれ」と云ったそうだ。
五月の風を緑の微風などともいうが、立原道造の言葉を知って、なるほどと唸ったものだ。
と共に、五月を一層素敵な月にするのは、やはりゴールデンウィークがあるからだと思う。

ゴールデンウィークといえば、夏休みや冬休みよりずっと心ウキウキ、楽しみな日々だ。
大人になって、別段なにか特別な日が待っているわけではなく、そのようなことを企画してもいないけれど
ささやかなことに心が温まるように思える休みなのだ。
みどりの日があって、新緑の眩しさと木漏れ日の間を歩いたり、端午の節句があって柏餅を食べたり、
街を歩いて鯉のぼりが風に靡いているのを見たり、そんなことが嬉しく思えるのがゴールデンウィークだ。

昨年も今年もゴールデンウィークは、もはや楽しみなゴールデンウィークではなくなった。
新型コロナによる緊急事態宣言が発令されたからだ。
去年は情報も欠しい状態だったし、とにかく感染は防がなければと思うばかりで、なんの疑問も持たなかった。
三日に一度だけ食料品を買いに外出し、あれもこれも取り敢えず伸ばせるものは後にして、言われるままに家に居た。
しかし、だんだんチョット待てよ、という気持ちが芽生え、今では行政の言い分につき、そのまま鵜呑みにしては
ならない、と思うようになった。
“不要不急”の外出は避けよ、というが不要不急とはどんなことをいうのだろう。

『広辞苑』によれば「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」と解される。
行政等から国民に対して行動の自粛を要請する場合によく使われる、らしい。
お家時間の過ごし方、色々報道されているが、どうやってもストアに行かなければならない社会である。
読書の時間をとはいえ、そうそう家に読みたい本が揃えてあるわけではなし、本屋か図書館に行かねばならない。
リメイクで服をと思えば、糸やボタンがない、手料理をと思えば野菜や他の食材が必要、
ベランダで花や野菜を育ててみればといわれても種やら苗やら購入しないと、となる。
これはもう、不要ではなく必要に変わった。
個々人により不要、必要は違うものと心得ることがまずもって肝心なのではないか。

では不急とは、もちろん今すぐしなくてもいいことであろうが、しかし、何れしなくてはならないことでもあるだろう。
帰省の自粛、再び会えるとは限らない家族や肉親もいるだろう、それは不急なのか。
帰国できずに居る外国の人々は、どうなのか。この国に滞在していること自体が生命に関わるかもしれない。
何をもって、不要不急と定義するのか、まったく理解できない。

今、私たちに求められることは、報道や行政のいうことを鵜呑みにすることではない。
冷静に、よく考えて行動する以外に、道はないのではないか、と思う。
特別なことは何もない、けれども人として慎み深く、オーソドックスにということが
事態収拾の早道なのかな、と思ったりしている。
慎重に、そして恐れ過ぎずにを常に心の中で確認しながら暮らしたい。

Apr.2221

先日、親しいご近所の方から菜の花を頂いた。
今年の春はこれで3〜4回になるだろうか、御主人が家庭菜園をされているそうで、時々野菜をくださる。
いつも採りたてを持って来られるので、野菜は青々と活きが良くてきれいな色をしている。
頂いたらその日の献立を変える。
最近、こういうことも小さな楽しみのひとつになった。
さっと湯がいて、ポン酢でたべようか、辛子醤油で和えてもいいし、あ〜胡麻和えもいいな。
今日の晩酌はビールか、ワインか、日本酒か。大いに迷う。

最初にもらった菜の花には、春を実感した。
緑色の葉っぱと薄っすら黄色になりかかった小さな蕾も愛でたくて、手を掛けずにポン酢でいただいた。
何というか、独特の香りが口に広がり、菜の花畑が目に浮かんだ。
次にもらった時は、辛子醤油で和えて日本酒を飲み、結構ハイな気持ちで他愛もなく時が過ぎるのを楽しんだ。
そして先日、「ちょっと、固いかもしれないけど」という言葉を添えられて、またもらった。
そんなこと、なんのその。
茹で時間を少し多めにとれば、茎の太いところも全部美味しく食べられる。

田舎では春中、葉物はそれのみで、毎日のように伸びる菜っ葉の先を摘まんで、朝食は味噌汁、昼食はお浸し、夕食は天ぷら
そして即席漬けやら、無理やり煮物に入れたりと工夫を凝らして、母が食卓に上らせたものだ。
3〜4回目ともなれば、チョット手を掛けて見たくなるのが人情というもの、菜の花を5〜7cm位に切り、
4〜5本を束にして板ノリを巻いて、さらに半分にした春巻きの皮を巻いて油で揚げる。
塩を振って食べるだけだが、これが滋味でお酒はもちろん、ビールやワインにも合う。
気取って、手持ちの器の中から客用のものでも選んで盛れば、食卓も華やぐ。

これがこの春の食べ納めかと思うときには、素朴に醤油だけで食べる、要は単なるお浸しにする。
こんな時、卓袱台を囲んで父と母と弟と私がいる、懐かしい夕餉を思い出す。
私がまだ子どもだった頃、どこの家も質素で、貧しくて、これで十分だった。
出自が分かるとび切り新鮮な物を食し、この上もない豊かさを味わっていたのだった、と今は思う。
春の物は独特の香りと共に、渋味や酸味などもあり、味にバラエティーがあった。
春野菜なら春野菜本来のものが備わっており、それが暮らしに彩りを与え、私たちの身体に元気をくれた。
この頃は、甘くて、柔らかいものばかり好まれ、食材があまりに平均化し過ぎてつまらなくなったと思う。

ご近所さんのお陰で、菜の花の移り変わりに、春の移り変わりも味わえて楽しい時々であった。

Mar.2721

晴れて暖かな日なので、おにぎりを持って散歩に出た。
大栗川の川沿いを少し上ると、多摩市と日野市の境目辺りに農園があった。
こじんまりとしてオシャレな家がポツポツあり、そこを過ぎると幾種類かの樹々に出合える。
竹藪や梅の木、柿木、欅、そして山桜にも。
鳥たちがさえずり、樹々の間を飛び交い、のんびりカラスがカーと啼く。
おやっ、鶯の鳴き声だ。まだたどたどしくて、ホーホケキョとは聞こえない。きっと若鳥だろう。
何度も練習したり、他の鳥たちの声を聞いて鶯の若鳥は一人前に、ホーホケキョと美しく鳴けるようになるという。
人も鳥も同じなんだと思うと、当たり前のことでも少し驚く。
時折、桜の白い花びらが舞い散って、それと分かるような微風が過ぎる。
何故か、桜の花は形あるものの儚さを感じさせて、切ない。

三月を迎え、日射しは日ごとに強く降り注ぐ。日も長くなり朝開けが少しずつ早くなる。
毎年咲き続けている桜草も可憐な花を咲かせ、今が盛りだし、ヴィオラやチューリップやノースポールも
競うように次々花をつけている。
巷の桜、染井吉野は妖艶に咲き誇り、人々を引き付けてやまない。
ハナミズキもいつの間にか小さな新芽をつけている。きっと地中の生き物も地上に出る日の準備中だろう。
なんとなくスキップをして歩きたくなる。

世界有数の豪雪地帯に生まれ育った私は、この春の兆しを待って待って、待ち望んだ。
暗く長い長いトンネルに、やっと一筋の光を見たようにほっとしたものだ。
しかし、雪国の春は、すぐに花は咲かない。
めったに姿を現さなかった太陽が顔を出し、蓄積された厚い雪を少しずつ解かし、水になって川の水量を増して濁流となる。
川縁にネコヤナギが銀色に輝く。
そして花は咲く。林にはユキノシタやカタクリ、人家の庭にはチューリップや水仙、牡丹、菫。
雪深い村落には染井吉野や枝垂桜はあまり見かけないが、山々には山桜が静かに咲いている。
遠くの山の頂に残雪を配したままで、平地の雪が解けると同時に稲の種を蒔く。
やがて、山々は緑一色となる。地も一斉に青々と緑だ。魚沼の春は忙しい。

ゆっくり花を愛でることができる春は、温かく楽しい。
でも、忙しい春も希望に満ちて、いい。

Mar.1421

先日、今年も知人から文旦を頂いた。
もう4〜5年前になるだろうか、文旦といえばブンタンアメしか知らなかった私だが、ある日文旦の実物を知る機会を得た。
熊本のお母様が作られた文旦を、知人がくださったのだ。
まず、大きさに驚いた。ネーブルオレンジの5〜6倍はゆうにあるだろうか。
少しの間、テーブルなどに置いておくと、柑橘類の爽やかな香りがほんのり漂う。

文旦は、よ〜く見るととてもユニークで面白い。
文旦の大きさ、丸さに、なんとなく宇宙を感じて、いいなぁと思う。三角や四角ではないところに、そのような不思議さがある。
かつて画家が描くことの難易度No1が円で、レンブラントの偉大さはこの円が描けたからと、どこかに書いてあったことを
思い出す。円は凄い。
表のオレンジ色の皮から果実までは、白いふわふわのクッションが1cm位ついている。きっと果実の水分を守るために
厚いのだろう。そして実。朱鷺色をすこ〜し淡くしたようなじつに美しい色だ。
ちょっと大きめな種が、隙間なく二列にお行儀よく並んでいる。形は、かわいい子恐竜の歯のようでユーモラスだ。
私は、一粒一粒の袋を開けるたび、つい種の数をかぞえてしまう。
もちろん、とても美味しい。さっぱりとして清らかな味である。

私はこうやって、形や色や味など、云わば表面的なことを、心ゆくまで堪能し楽しんでいる。
けれど、文旦一個、私の手元に届くまでには、たくさんの過程がある。
自然は素敵な時ばかりではないから、知人のお母様はすごく大変なことやご苦労もされたことだろう。
その私の想像に余りある働きの上に、この文旦がある。

文旦のもう一つの楽しみ方。
外の皮はピールにして食べることをお勧め。
また、皮と実の間にある厚いふわふわのクッションのようなものも、砂糖で煮て食べられる。市販のジャムのようになる。
作り方は、一口大より小さめに切り、水を入れて煮る。煮立ってきたらお湯を捨てる。
3〜4回繰り返し、あく抜きをしたら砂糖を入れ再び火にかける。
水分が半分以下になったら、レモンを多めに絞って入れ、後は水分がなくなるまで煮詰める。
できあがると綺麗な淡いオレンジ色になる。
渋味は少し残るが、2〜3日置くとほとんどなくなる。ほんのり渋味があるのも美味しい。

Mar.1321

「デデポッポ―、デデポッポー」と山鳩が啼く。
満ち足りて少しさみしいような、時にまどろみたくなるような鳴き声だ。
山鳩は別名キジバトと呼ばれ、全長33cmほど、丸みを帯びていて、何となく優しい感じがする。
雄も雌もほとんど同じ色で、ブドウ色の身体に茶色と黒のウロコ模様の羽がある。
首には黒と灰色の斜めの横筋があり、けっこうオシャレな鳥だ。
最近は市街地にもよく見かけられるようになったが、私の子どもの頃は遠い山で啼いていた。

小学校5〜6年生の頃、「絶唱」という映画を見た。
田舎には田植え休みというのがあって、村の青年団が公民館で娯楽のない村人に、上映してくれたものであった。
山番の娘小雪と大地主の息子との悲しい恋物語ではなかっただろうか。
ジ・エンドの少し前、死んでしまった、泉雅子扮する小雪は白無垢の花嫁衣装を着せられ、舟木一夫が抱きかかえて歩む(役名
は忘れてしまった)場面があり、、舟木一夫の心に染み入るような切ない歌声がバックで流れる。
“愛おしい 山鳩は  山こえて どこの空〜
名さえはかない  淡雪の娘よ〜”
この美しいシーンは、夢のような別世界として、いつまでも私の記憶に残った。
とりわけ“山鳩”というこの鳥の名前に心が魅かれたのだった。

この冬、我家では家と市の敷地の境目に野鳥の餌箱を設置した。
色々試行錯誤をして、最近やっと野鳥たちが餌をついばみにやってくるようになったが、最初に訪れたのが山鳩のつがいであった。
山鳩は一度夫婦になると長い間ともに生活をするそうで、いつも同じ山鳩が来るかどうかはわからないが、二羽一緒に来て、
お互いの近くをウロウロとしながら餌を食べている。なかなかかわいらしい。

家人も山鳩が初めて来たときは、とても喜んだのに、頻繁に来るようになったら、「なんだ、また山ちゃんか」なんて言う。
私はちょっとムッときて、「エコヒイキはいけません。」ときっぱりと言ってやった。
“山鳩”は、私のちいさな思い出のかけらのひとつなのだ。

「絶唱の」山鳩は小雪のことをさしていたのだと、今はわかる。
本当に懐かしい思い出で、静かな農村の風景と連なる山々が浮かんでくる。
でも、もう取り戻せないのだとわかる。それは幼い頃に戻れないということではなく、田植え休みのほっとする時間や
公民館でみんなと見る映画の訳もなく楽しかったことや、厳しくも穏やかな村人の暮らしや、そういったすべてが
過去のものとなって、そういう村人たちの暮らしそのものを、取り返すことが出来なくなったのだ。
人はたくさんの色んなものと決別する

Feb.22.21

先日、夕刊で『使い捨てカイロ 意外な再利用』の見出しを見た。
東京海洋大の佐々木剛教授はカイロの中身を使った水質浄化に取り組んでいる、とのこと。
カイロの成分である鉄や炭が、有機物による汚染度を示す化学的酸素要求量(COD)を半分に改善したことが実験結果で
出ているという。水質浄化に取り組むGo Green Group(大阪市)は佐々木教授の協力で、大阪万博の会場となる人工島
「夢洲」周辺の海をきれいにする計画を進めている、そうである。
そのため使い捨てカイロの回収を呼びかけている。消費期限切れや使用済みのカイロをポリ袋に入れ、段ボールなどで送付する。
使用済みカイロを役立てられるなんて、願ってもないことに思え、送付先をメモしておいた。
このような試みが、もっと広範囲に広がることを期待している。

海や川の水質悪化は、家庭から出る生活排水が大きな原因になるらしい。
生活排水は処理場を通って川や海に流れ出るが、豪雨や台風などで処理場の能力を越えると汚水はそのまま海に流れ込む。
佐々木教授は海や川の汚染は回復に時間がかかるため、油をそのまま流さないなど、私たちの生活から汚染を防ぐ
取り組みが必要といったことを話している。

我家では、ずっと以前から古くなったフェイスタオルやバスタオルを小さくカットして、流しの傍の箱にいれて置き、
お皿やフライパンの油をふき取ってから洗う、揚物の油は野菜、魚肉というような順序でメニューを考え
残りの油を古タオルで吸い取り、新聞紙に包んで燃えるゴミに出すようにしている。
味噌汁はよほどのことがない限り残さない。味噌汁一杯分に必要な水の浄化量は何と浴槽一杯分以上の量が必要だそうだ。
小学生だった息子が、玉川上水の社会科見学に行って聴いて来た。
この話に仰天し、以来味噌汁は食べ切ることをモットーにしている。。
だから醤油やドレッシングなども残さない。醤油は無理でも、ドレッシングは作れるから、その都度必要な量だけ作る。

あまり環境のためなどと考えると、ストレスを感じてしまいがちだ。
だから、例えば味噌や醤油はどんなふうに作られ、どんなふうにして自分の手元に運ばれるか、思い描いてみる。
私が子供の頃、田舎では味噌は毎年自分の家で作っていた。
父や母が時間を掛けて、丁寧に作っていたことを思い出す。
そうすると、自分の手元に届くすべての物が、だれかが思いを込めて作ったのではないかと思える。

時にこんな文章に巡り合うと、頑張っている人に少しでも沿うように暮らしたいなと思う。
時々色々なひとのことを知って、平凡な日々に少しだけ刺激を与えて過ごしたい。

Feb.08.21

『SHIMADAS』という本がある。公益財団法人日本離島センターが発行している日本の離島に関するガイドブックだ。
厚さ5センチほど、重量のある百科辞典のような一冊。
2019年10月に発行された最新版には1700島を超える島々の情報が収録されている。
ページをめくるたびに、初めて見る島名に驚嘆する。
名前すら知らずにいた島々の歴史や文化や風習、名所や特産品に興味が湧く。

気になった島があったらインターネットで検索してみるのもいい。
観光案内サイトや旅行者のブログなども閲覧できて、さらに詳細な島の様子を知ることができる。
自身の内の一ミリたりとも知り得なかった、自分の知らない彼の地で連綿と受け継がれてきた生活や命のさまに
深い思いを抱くことができるだろう。

紙面から想像するのもいい。
きっと、どんな島でも四方を海に囲まれている。
時には途方もなく荒れ狂う海があり、不便なこともあるに違いない。
でも、きっと海は総じて美しい碧だろう。
不便さは、厳しい自然との共存によって培われた経験と叡智で補うことであろう、などと想う。
地平線に朝日が昇り、夕日が沈む。夜は漆黒の空に金粉を散りばめたように無数の星が輝くだろう。
彼の地の人々によって紡がれてきた膨大な時間の繋がりや重なりを思うとき、心がたじろぐ。

旅に出るのはまだ難しそうな日々は続きそうだが、こんな本を側に置き、時に無作為にページを開くのが好きだ。
一枚で日本全土が見渡せる日本地図があればより楽しい。
位置を確認しながら、行ったことのない地へ思いを馳せる。
どんなに遠い島でも思いだけで行ってみることができる。
いつか、自分の知らない場所や時間を生きた、彼の地の人の物語を聞くために、今は果てない思いにぼーっとする。

Jan.23.21

色々事情があり、長いことお休みしておりましたが再開することにしました。
知人がたまに見てくださっていることを知り得たことは、大きな励みとなりました。
ありがとうございます!

コロナ禍の非常事態宣言中でもあり、また厳冬時期でもあるため、日々繕い物に勤しんでいます。

亡き父が愛用していた綿入袢纏の綻びた箇所や擦り切れたところに、パッチワークのように別の布を継いだり、
その上から補強のためキルトのように刺し縫いをしています。
やり始めると意外に楽しく、まず全体をどんなふうにするか、綻びや擦り切れの大きさ、位置などを確認し、
接ぐ布はどんなものにするか等々考え、そしてキルトの糸の色を選びます。
それだけでチョットワクワクします。

そもそも綿入袢纏は防寒用につくられたもので、寒さの厳しい北陸や東北地方の人々が主に着用したのではないかと思います。
普通の袢纏の中に綿を入れ、真綿を薄く伸ばして綿をくるみ綿が動かないように作られたものです。
軽くて暖かくて、私には懐かしい衣服です。
毎年、暮れになると母が夜なべをして家族中の綿入れ袢纏を作ります。
元日の朝、真新しいものを着て、みんなで祝いの食卓につきます。
もちろん着物の上に羽織り、洋服の上からも羽織れます。

父の綿入袢纏は年代ものです。
父は私の幼い頃によく着物を来ました。
毎日仕事を終えお風呂をあがると着物に着替えたし、村の寄り合いなどにも着物で出かけました。
そうして冬は着物の上に綿入袢纏を羽織りました。
今繕っているものは表が薄茶と黒の細縞模様の絹布で仕立ててあります。
母が仕立てたもので、母が亡くなってからもずっと大切に羽織っていたものと思われます。
でもいろんなところに綿が見え隠れするようになって、縫い目がほつれたりもしたのでしょう。
そっと箪笥の奥にしまってありました、綺麗に畳んで。
遺品整理をする際にみつけてしまいました。

弟が着たいと言うので私が繕うことにしたのです。
パッチワーク用に接ぐ布は、父の羽織を解いて洗い張りをしたものを使っています。
父を身近に感じてほっとします。

Nov.04.19

思いもかけず秋晴れになりました。
散歩にはうってつけの日和です。

     

多摩市は山を切り開いて作った街なので坂や斜面が多くあります。
今日は閑静な住宅街を歩いて見ることにしました。

近くの山神社を通って足の向くまま気の向くまま進むことにしました。
山神社のすぐ横に“とりで公園”というのがあることを初めてしりました。
右には大きな樹々が、左には民家が立ち並ぶ地形です。
公園というとつい平面の地形を想像し、そこに幾つかの椅子があったり、遊具が置いてあったりする場所を思い出しますが、
そこは緩やかな上りになっており、森林浴に座って過ごせるようにか、長椅子が二客あり、それから幅広のゆるやかな階段に
変わり、樹々の根元は草が刈らているので鬱蒼とした感じはありません。
右には太陽の光を浴びて煌めく樹々の葉がそよそよと揺れ、左には市が植えた紫陽花の木々が連なり、その横に少し隔てて
実に素敵な家々が立ち並んでいます。
斜面をうまく利用した家々は、広々として手入れの良い庭や木々が家の美しさを引き立てているようです。

とりで公園の片端に上り着くと道路に辿り着きました。
この辺一体を多摩市の高級住宅街と呼ぶそうで、立派な家々ばかりです。
それぞれにそこに住まう人々の趣向や拘りが見えます。
もっと云えば生き方やポリシーまで垣間見られるように感じました。
大きな窓の外の木が、四季折々美しい表情を見せてくれるような空間を持つ家ばかりですが、
その設えも同じものは一軒としてありません。
ステンドグラスの窓や明り取りがさりげなく嵌め込まれている家、門から玄関にかけての花々やその他の手入れの良さ、
屋根に煙突があって、庭を見れば軒先に綺麗に積まれた薪の数々があります。
庭の芝がきちんと刈り取られアールヌーボー調のテーブルと椅子が置かれ、何よりステキなのはそれが日々家族に
使われ憩いの場になっていることがみてとれることです。

近頃はほとんど同じような建売住宅ばかり増えました。
色々事情はあると思うのですが、例え建売でも小さな家でももう少し手はかけられないのでしょうか。
折角手に入れたマイホームなのに、いつもシャッターが下りていて、門や玄関前は雑草だらけです。
購入時に申し訳程度の隙間に植えられていた木や花々も手入れもされず、水さえあげられずにそれが生き物であることなど
忘れられたように生気がありません。
またあちこちにその植物は伸びほうだい、子どもの遊具や枯れた植木鉢が転がっていたりします。
そんな状態を見るにつけ日本人のゆとりのなさを哀しく思います。

Aug.24.19

新潟県の十日町駅から飯山線に乗ったころから雨は降り出しました
飯山線は越後川口から長野県飯山まで走っているローカル線です。
二両だけのワンマンカーです。
単線で、こんな所にも人は住むのか、と思われるような山や谷間をゴトゴト進みます。
弟と私は平滝という小さな無人駅まで行きます。

急に途中から豪雨となり、一時停車しました。
多少小降りになり、またゴトゴト進みます。
しかし辺りは薄暗くなり、鹿渡という駅で再び停車しました。
運転手兼車掌の男性はこの状況を正確に観測することと本部への報告に余念がありません。
雨は警報の域に達したらしく、彼は決断をしました。
乗客の私達は、これ以上この電車を運行出来ない理由とこれからの対策について説明され、個別に行き先を聞かれました。
そして、代行バスが出されると決定したことの報告を受けました。

私達は先を急いでおり、また帰りにはこの飯山線で越後田沢で下車し、幾つかの用を済ませて
15時35分の越後湯沢行急行バスに乗り、新幹線で東京に帰宅するという予定でした。
すでに平滝駅に着いていなければならない時間でしたが、自然相手のこと、諦めました。
車内には10人ほどの乗客がいたでしょうか。
概ねその運転手の説明に同意し、静かに代行バスを待っていました。

しかし、居ました。
ぼそぼそと今になって運転手にああでもない、こうでもないと不満げにしゃべくる人が。
やっぱり、中年の、いや、初老かな、の男性でした。
根気良く丁寧に説明するその運転手は、まだどことなく幼さが残っているような、スラっとした長身の青年でした。
代行バスが着いた時もその初老と思われる男性は、グズグズとしゃべりかけていました。
運転手はバスの運転手との連絡事項や乗客の案内で、てんてこ舞いです。
なにせ一人きりのワンマンカーの運転手兼車掌なのですから。

その初老の男性はなかなかハッキリしないので、運転手が何度も確認し、結局代行バスには乗りませんでした。
運転手はバスが出発する間際、姿勢を正し帽子をとって
「お急ぎのところ大変申し訳ございませんでした。」と深々と頭を下げ、バスが遠のくまでそうしていました。

私はちょっと胸が熱くなりました。
今日のこの運転手の働きに、心から感謝をしたいものだと思います。
こんなふうに誠実に仕事をしている青年を見かけると本当に温かい気持ちになります。
それにしても、ワンマンカーなどではなく、車掌のひとりくらい増やすことはできないものでしょうか。
ローカル線の経営は厳しいものがあることは理解できます。
けれど、人の命を預かる運転手には、もっと余裕を持たせてあげたいものと思うのです。

Aug.03.19

ミーン、ミン、ミン。
蝉の鳴く声が聞こえてきます。
ア〜、今年も夏が来た、と思う瞬間です。
なんだか少しほっとします。

蝉は昔から夏を象徴するものの一つとして、短歌や俳句、小説などによく登場してきました。
夏の初め、盛り、終わりの頃と蝉の種類も変わり鳴き声も変わっていきます。
蒸し暑い日、蝉たちが競って鳴く声はほとんど騒音でさえあります。
誤ってか、つかまり易いためか、ある日、我家の網戸を来訪し、凄まじい声で鳴く時、
耳を塞ぐか、あるいはまた、人の気配を感じさせて帰ってもらいましょうか。

しかし、実際、そうはしません。
こんな危険度の高い網戸で休憩、または雌を恋い慕わなければならないのは、蝉の責任だろうか、などと考えるわけです。
そして、蝉の生い立ちを考えてみます。

7年間もの長きにわたり地中でその時期を待ち、ある夏の朝地上に辿り着き、木や草の根元や葉っぱの裏などで
脱皮をし、短時間で成虫となって飛び立つ数々の蝉たちを想像すると、心から祝福したい気持ちに駆られます。
どうぞどうぞ大いに鳴いて! よいパートナーを見つけることができますように。

それなのに地上に生きている時間はたった7日間程度だなんて。
思うたび、憐憫の情がわいて、儚さを感じます。
しかし、そんなふうに思うのは、人間の身勝手な思いなのかもしれません。
もしかしたら、地上での7日間は蝉にとって100年分くらいにあたるのかも、とふと思うのです。

July.23.19

いやー、長いことお休みしてしまいました、このコーナーも。
絞りは一つの作品ができるまで数か月かかるのは当たり前なので、毎日糸や針、布地に
触らないことはないのですけれど。
さて、多忙を言い訳にせずチョット気持ちを入れ替えてやってみようと思います。

「お母さん、チョット来てみて!郵便受け見てよ」と帰宅した息子がいきなり言う。
「ハァ、なに?」とわたし。
「僕が出かける時、芋虫のような幼虫が郵便受けに張り付いてモゾモゾやっていたんだけど、
今見ると蛹になっているの。郵便受けの側面だよ。これってスゴクナイ?」
まだ私は見てもいないけれど、そうだとしたらやっぱり凄い、と思う。
早速、郵便受けを見に行く。
オッ、本当だ。
よくもまぁ、落ちずに蛹がくっついているものだと感嘆する。
なぜなら蛹は郵便受けに対して約30度位だろうか、傾いて付いている。
そっと近寄ると、2本の細い糸のようなもの ―仕立て上がりの着物に施す絹のしつけ糸をさらにもっと細くしたような―
で支えられている。
「これは何の蛹なのだろう?」わたしの問いに、
「揚羽蝶に決まっているでしょう、だって柑橘類の葉っぱが好きなのは揚羽蝶でしょ。」と、
遠い昔、虫博士のあだ名を頂いていた息子が答える。
う〜ん、そうか。我家の大事なカボスとレモンの葉っぱを丸坊主に散髪した中の一匹か、と思う。

しかし、何を誤ったのだろうと考える。
蛹は鮮やかな緑色である。多分、きっと蛹が緑色なのは外敵に襲われないための保護色なのに違いない。
なのに蛹になった場所は赤い郵便受けである。
これはもう、どうぞ僕(わたし)を見てください、襲ってもかまいません、と言っているも同然である。

心は少しだけ複雑であったが、せっかく蛹になったのだから応援しよう。
夫も息子も頻繁に様子を見に行く。
「羽の形がハッキリしてきたみたいだ」と夫。
それは気のせいか、ひいきめか、私にはいまだなんの変化も見られない。
どうか無事に蝶に孵って欲しいと家族で願っている。
できれば羽化にも遭遇したいと思っている。
蛹になって、土曜の午後から今日で丸二日間が過ぎる。

Mar.13.19

八王子市夢美術館に「チェコの現代糸あやつり人形とアート・トイ」展に行きました。

京王八王子駅から徒歩15〜6分なので、歩くことにしました。
たまに訪れる街は新鮮な気がします。
何かそこに住む人びとの好みというか、拘りのようなものはないかと建物やお店などを覗いてみたりします。
八王子は昭和の中頃まで織物の街として栄えたと聞いています。

織物と関連してネクタイの生産も盛んだったと記憶しています。
ついそのような痕跡がうかがえるものはないものか、とウロウロしたりします。
あった!?
ひらひら風に揺れている暖簾に“染めや 悉皆”と書かれているではありませんか。
最近は珍しい、着物の洗い張りなどをやってくれるお店です。
あぁ、こちらの小さな履物やさん、創業は江戸時代の頃とあります。

あちこち寄り道をしているとなんとなく職人の街だったんだろうと思います。
夢美術館の隣の隣には「荒井呉服店」の看板を掲げたお店があります。
美しく華やかな振袖が入口に飾ってあります。
かのミュージシャン松任谷由実氏のご実家なのだそうです。

Mar.06.19

多摩市民講座「ファッションとテキスタイル」が終了しました。
月1回、全6回でしたが、大変興味深い内容でした。

世界の民族衣装を知り、西欧キリスト教圏における“青の歴史”や“ストライプの歴史”を学び
さらに東洋との見解の違いを知りました。
また、中国少数民族ミャオ族のお洒落な布や衣服づくりを学び、中央アジアやインドの布の魅力を
も知りました。
そして、我が国の明治・大正・昭和初期の着物に見る色彩・模様の多彩さ、モダンでポップな表情を
知ることまで、その布の奥深さには驚嘆させられました。

たった一枚の布に込める思いや願いは、纏う人へのすべてがそこに投影されているのです。
衣服は人々の生活そのものであり、日々の暮らしの喜びや悲しみなのです。
綿や絹や麻を紡ぎ、織り、染色をし、細かな模様を刺繍し、あるいはパッチワークし、縫い重ね
絞り、場合には金銀を施し、ありとあらゆる工夫によってつくられた布地。
果てない砂漠を一歩一歩進むように、一針一針糸を刺した軌跡を思うとき、
人は布の力を知ることになるのだと思います。

Mar.04.19

三月、桃の節句も過ぎ、日に日に春らしくなってきました。
パンジーやビオラ、クリスマスローズや桜草も咲き始め華やかな季節がやってきました。
心にも少しづつきれいな色が塗れるような気がしてきます。

今日は朝から小糠雨が降っています。
それぞれの花びらは小さな水滴をたくさんつけて生き生きと見えます。
静かな雨は人にも花々にも優しく感じられます。

Jan.20.19

新しい年が明けてすでに半ばが過ぎ去りました。
今日は大寒にあたり、一年中で最も寒い時期とされています。
快晴であっても戸外の空気は刺すように冷たく凍ってしまうように感じます。

けれども窓辺に差し込む太陽の光は気のせいか、僅かに明るくなったように思います。
ふと足元に目を転じれば桜草の蕾がピンク色にふくらみ、小さな花びらが覗いています。
まだまだ寒さは厳しいだろうが希望の兆しが見えたようで心がほっとします。

何もかもがきっとさらに大変な年になるだろうと思われますが、流されずに暮らしていきたいものです。
もしかすると一番辛く苦しいことなのでしょう。
それでも、このことをいつも忘れずにいることを自分自身に言い聞かせながら進もうと思うのです。

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